江戸幕府は、室町時代から九州各地で行われていた中国貿易を寛永12年81635)長崎以外の土地で行うことを禁止した。そのため、九州各地から中国人が長崎に移住、長崎は中国貿易の拠点として大きく発展することになりました。
1670年代の長崎の人口は6万人で、その内の6分の1の約1万人が中国人であったそうです。
あまりの貿易の増加で常高制という貿易の制限をする法律で取締りを強化した為、密貿易が増加した。唐人屋敷は、このような密貿易を取り締まる目的と貿易の統制を徹底させる目的で長崎村十善寺郷(現館内町)に造成されました。造成は、元禄元年(1688)に着工、元禄2年(1689)4月に完成した。これ以降、唐人の市内居住が禁止されました。
この旧唐人屋敷に現存する四堂のうち、土神堂、観音堂、及び天后堂の三堂は唐人屋敷の中に建てられていたものですが、福建会館は唐人屋敷廃止後の明治期に建てられました。
明治4年の日清修好条規の締結後の安政の開国によって唐人屋敷は撤廃され、中国人の大半は新地や大浦の外国人居留地に居住するようになりました。
旧唐人屋敷入り口新地の中華街と湊公園の前の道路を山手に向かうと、広馬場商店街の看板がある赤い門が見えてきます。ここが「旧唐人屋敷跡」の入り口にもなっています。
広馬場商店街再開発が進む商店街の奥にもう一つ赤い門が見えてきます。
(自家用車の場合、駐車場が無く、道も狭いので、ここの入り口の有料駐車場に車を停めて徒歩で廻ることをお勧めします。)
その門をくぐって、50m程の右手にレンガ塀の古い建物が「土神堂」です。
市指定史跡 土神堂この土神堂は、元禄4年(1691)、唐船の船主らの願いにより建てられました。
天明4年(1784)の大火で焼失し、のち再建され、以後数回にわたり改修されました。
昭和25年(1950)老巧化及び原爆の被害を受けたことから解体され、石殿だけが残っていましたが、昭和52年(1977)に再建されました。
市指定史跡 土神堂土神堂の左手の道を60m程登った所に「福建会館」の入り口が見えてきます。
福建会館 正門福建会館は、明治元年(1868)「八ビン会館」として創建された。その後、明治30年(1897)に建物を全面改修し、「福建会館」と改称した。会館本館が原爆により倒壊したため、現存するのは正門と天后堂などである。
福建会館
媽祖画像堂内の中央に、媽祖(天后聖母・天妃)が祀られ、左右に侍婢がかしずき、前に千里(4000キロメートル)先まで見える千里眼と千里先まで耳が聞こえる順風耳が立っています。その横に篆字(てんじ)体で書かれた金色の柱聯がかかっている。
媽祖像福建会館裏の番人屋には、唐人屋敷の埋蔵品や復元物、中華民国の初代臨時大統領で、中国革命の父と呼ばれている「孫文」と長崎の関わりなどの資料が展示されていて興味深い。
資料館福建会館を出て、坂道を60m程登った所に右に「天后堂」左に「観音堂」が見えてきます。
市指定史跡 天后堂元文元年(1736)南京地方の人々が航海の安全を祈願し、「天后聖母」を祀って建立されました。寛永2年(1790)に修復され、現在の建物は、明治39年(1906)全国の華僑の寄付で建てられました。関帝も祀っているので、別名「関帝堂」とも呼ばれている。ちなみに天后の徳は限りないそうで、お参りすると悟りの岸に登ることが出来るそうです。
天后堂を出て、来た道を通りを隔てた場所に「観音堂」が見えてきます。
観音堂
市指定史跡 観音堂観音堂は、元文2年(1737)に創建された、観世音菩薩と関帝を祀ったお堂です。天明4年(1784)の大火で焼失し、その3年後に再建されました。大正6年(1917)中国商人鄭永超の手で改築されました。入り口のアーチの石門は唐人屋敷当時の物と言われています。
市指定史跡 観音堂観音堂は市営の「みどりが丘保育所」の敷地の中にあり、お堂の前の広場は、子供たちの運動会やスケッチなどにも使われており、小さい子供さんは古い歴史の中で暮らしています。
みどりが丘保育所