長崎の観光地

「明治日本の産業革命遺産」世界文化遺産登録決定!

明治日本の産業革命遺産は、長崎の軍艦島やグラバー邸など、県内8施設を含む23施設で構成された文化遺産で、ドイツのボンで開催されていた会議により、2015年7月5日22時40分(日本時間)登録が決定しました。

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決定の瞬間はNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」主催の集まりにお邪魔することができ、貴重な体験をすることが出来ました。

この「明治日本の産業革命遺産」は、正式には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」と言う長い名称で、地域も山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の8県に点在することとなりました。

そのうち、長崎市には「小菅修船場跡」「三菱長崎造船所 第三船渠」「三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン」「三菱長崎造船所 旧木型場」「三菱長崎造船所 占勝閣」「高島炭坑」「端島炭坑」「旧グラバー住宅」の8施設があり、今後長崎市に世界中から観光客が訪れる人が増える事は必至です。

2016年には大浦天主堂などの「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録が決まる可能性があり、今後の長崎観光には明るい材料が豊富にある反面、宿泊施設や駐車場などの受け入れ態勢にはやや不安材料がありますが、今後改善されることでしょう。

大浦天主堂

大浦天主堂は今日世界遺産に登録された旧グラバー住宅がある「グラバー園」と隣接する施設で、「小菅修船場跡」も近くにあるなど、観光客で賑わう地域になると思われます。

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壱岐に行ってきました!

壱岐は長崎県とは言いながら、佐賀県の唐津からフェリーが出ていて、長崎市に来るより福岡に行く人が多い土地で、私自身も初めて訪問することになりました。

今回、観光が目的ではなかったので、観光地には殆ど行っていませんが、少しだけ気になった場所の紹介をしたいと思います。

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ここは、岩の形が猿の横顔に似ていることから「猿岩」と呼ばれている観光スポットですが、本当に似ていますよね?

壱岐は、唐津東港から1時間40分の距離にあり、長崎港と福江を結んでいるフェリー「万葉」とよく似た型の「エメラルド唐津」という多分尾道の内海造船製の船が就航していて、1時間40分ののんびりした船旅でした。

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壱岐は歴史と古代遺跡の島でもあり、数年前に国宝級の遺跡で特別史跡として指定された「原の辻遺跡」があり、登呂、吉野ヶ里とともに日本の三大遺跡として指定保護されています。

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壱岐は南北17q、東西に14qという小さな島で、私の足で約2時間で直線距離を完歩してしまいましたが、その間一度も島民と遭遇しないほどの静かな(?)町で、日中にジョギングしている姿を、すれ違う車からは特殊な人のような目で見られました。

しかし、のんびりとした魅力に溢れた島d、次回はゆっくり史跡巡りや観光地を訪問してみたいと思いながら、一泊の短い滞在で島を後にして帰ってきました。

長崎の観光地

伊王島大橋が開通します。

こんにちは!
長崎観光@元タクシードライバーの長崎ガイド 管理人のじげもんです。

本日3月27日午後2時から伊王島大橋が開通します。

構想から40年余り、島民にとっては悲願の陸続きになることで不自由な離島生活も解消されることでしょう。

反面、綺麗だった海や自由に走り回っていた道路をサイクリングする姿なども一変して仕舞うでしょう。

観光客は増えるかも知れないが島が荒れるのは寂しいですね。

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長崎/神崎神社

神崎神社

長崎港を南に行くと、港口の一番狭くなった所に斜張橋が掛かっている。2005年12月11日に開通した女神大橋である。

総延長1,289mの短い距離ながら、海面からの距離が65mと言う橋の下の空間がとてつもなく広いこの橋は、長崎港に訪れる大型クルーズ客船などが難なく通れるような高さになっている。

この女神大橋の木鉢側の橋脚の袂にある神社が「神崎神社」である。

第14代天皇の仲哀天皇の妻、神功皇后が三韓征伐へ向かう途中で長崎に立ち寄り長崎を出航する時に船から眺めた美しい景色をみて、その地形に陰陽の2つの神がいるようだと感動して、陰神と陽神とよばせ、対岸2ヶ所に神様を祀ったそうです。後に男神・女神とよばれるようになりました。旅する長崎学より

その男神と呼ばれる地名は長崎の人も殆ど知らない地名で、この「神崎神社」の存在も知らない人が多いでしょう。

森崎神社稲荷

陸路からは大変な場所にあるこの祠は、女神大橋が架かったことでほぼ同じ高さで見る事が出来るようになりました。

場所は、木鉢側に近い長崎港外の方向で、歩いて大橋を行くと眼下に見えてきます。

3月5日には、日本初入港の大型クルーズ客船「クイーン・ヴィクトリア(90000トン)」の入港も女神大橋の上から見ると最高でしょうから、合わせて出かけてみてはいかがでしょうか?

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やすらぎ伊王島


やすらぎ伊王島」(長崎温泉 やすらぎ伊王島)は、長崎の大波止ターミナルより、高速船「コバルトクィーン号」で19分という近い距離にあり、平成16年3月に温泉を掘り当ててからは、100%天然温泉かけ流しが自慢のリゾート地となっています。

伊王島は、元々炭鉱の島として栄え、石炭の最盛期の人口は7300名、炭鉱で働く人の数も1400名ほどいたそうですが、閉山とともに減り始め、現在は、900人弱になっているそうです。

この、過疎化が進んだ、伊王島に平成元年にリゾート施設を作ったのが「ルネサンス長崎・伊王島」という第三セクターの施設でしたが、夏場には海水浴などで結構人出があるものの、冬場に魅力的なものが無かった為か、平成14年には閉鎖してしてしまった。

その後、平成15年に現在の「やすらぎ 伊王島」を経営する、カトー・プレジャーグループ(KPG)が「癒し」をテーマに施設の拡充や、リメークなどを行い、翌年に温泉を掘り当て、「長崎温泉やすらぎ伊王島」としてリニューアルしてからは、年々利用客も増え始め、日帰りで行ける温泉として人気のスポットです。

この伊王島はキリシタンの里としても有名で、島の住民の半数以上がカトリックの信者であるため、沖ノ島教会など昔の面影を残した建物も多く点在しており、伊王島灯台などは日本で最初に設置された物です。詳しい説明はこちら>>

高速船コバルトクイーン

アクセス:電車・・・「大波止」電停より徒歩5分。
高速船料金:大人片道650円、小人330円
やすらぎ伊王島の温泉が目的なら船賃込みの入湯料980円の「日帰り温泉パック」がお得。

自家用車の場合は、県営大波止駐車場が便利です。
駐車券を島の待合室に設置してある機械に入れると最大料金の半額で駐車できます。

今年の夏休みは「伊王島 海水浴パック」が人気です。

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大波止の「鉄砲ン玉」

大波止の鉄砲ン玉

「大波止に玉はあれども大砲なし」という長崎七不思議の言い伝えがありますが、この玉が「大波止の鉄砲ン玉」という大砲の玉です。直径56cm・重量560kgというかなり大きな物です。

碑文によると、寛永15年(1638)正月、島原の乱で一揆が立てこもった原城を攻略する為に長崎で鋳造されたが、使う事もなく350年間ここ大波止に置かれていたそうです。

この「大波止の鉄砲ン玉」がある場所は、夢彩都の隣に最近オープンしたケイズパチンコ店横にあります。

この場所は、元は狭い通路の片隅にあり、長崎の地元の人でもあまり知られていませんでしたが、再開発が進み、道路が広くなった為にとても目立つようになりました。

最近の大波止は、「花火大会」や、「軍艦島クルージング」又は、夢彩都、アミュプラザなどのショッピングモールなどに出入りする人で賑わっている場所ですが、そんな場所に静かに歴史を刻んできた物があるのは、不思議な感覚ですが、是非立ち寄ってみてください。

ちなみに、この「大波止の鉄砲ン玉」は、地元の町内のおくんちの出し物「傘鉾」の飾りの元になっているそうです。

※長崎七不思議とは、地元の民謡で、長崎の地名の付け方を唄ったものです。

1.寺もないのに大徳寺

2.平地なところ丸山と

3.古いお宮を若宮と

4.桜もないのに桜馬場

5.北にあるのを西山と

6.大波止に玉はあれども大砲なし

7.シャンと立ったる松の木を下(さが)り松とは

各地名の詳しい説明は⇒「ナガジン

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杠葉病院別館(ゆずりはびょういんべっかん)

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南山手のグラバー園より南に少し行った所の石垣の家にこの建物は建っている。シグマンド・デービッド・レスナーの旧住宅。

明治16〜35年の間の建築物だそうですが、記録に残っていないのでしょうね?あまりのアバウトな築年数です。

高い石垣と広々とした芝生の庭に囲まれ、柱頭とアーチ型の欄間飾りが特徴。レスナーは明治16年に長崎に来て、貿易、雑貨商またオークション業などを営み莫大な財産を築いた。ルーマニア生まれでオーストラリア国籍のユダヤ人である。大正9年没、墓は坂本町外人墓地内のユダヤ人墓地にある。

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現在この建物の所有者は、杠葉病院と言う精神科や内科の病院で他の場所で大きな病院を経営しています。ここは、事務所として使用していますが、観光施設ではないため内部に入る事は出来ません。

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レンガ塀と石垣の間を通り抜けて行くと、右カーブした通路が有り、その裏に不思議な空間が広がっていました。

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何の為の台なのか2個づつ4箇所、合計8個の中には土が入った植木鉢みたいだけど、線香立てのようにも見えるし・・・?
どなたか知っている人がいたら教えて?

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明治期の洋風建築

明治期の洋風建築は、大浦方面に集中して残っており、特に東山手・南山手の両地区は、風致地帯として保護されています。建築に興味がある人などはこの地域をゆっくりと歩いて回る事をオススメします。

旧出島神学校・・・明治10年築、出島阿蘭陀商館跡に建つ洋館。

旧長崎税関下り松派出所・・・明治31年築、煉瓦造平屋建、現在はべっこう資料館として開放。

旧長崎英国領事館・・・明治41年築、煉瓦造り2階建、現在は改修中。

東山手十二番館・・・明治元年築、旧ロシア領事館。現在は私学資料館。

活水学院・・・大正15年築、オランダ坂の上赤い三角屋根の建物。

東山手洋館郡・・・明治中期頃、活水学院より南へ坂を下った場所。

旧香港上海銀行長崎支店記念館・・・明治36〜38年築

須加五々道美術館・・・明治中期築(旧中村邸)南山手乙九番館。

宝製鋼株式会社・・・明治35年築、R.F.ウォーカーによる煉瓦造りの建物。

グラバー園・・・明治期の洋館の宝庫。旧リンガー邸、旧ウォーカー邸等。

杠葉病院別館・・・明治中期築、グラバー園に隣接する建物。観光施設ではない。

マリア園・・・明治31年築、レンガ造りの洋館。※観光施設ではない。

小菅修船場跡・・・明治元年築、我が国に現存する最古の煉瓦造り建築。

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大浦地区

大浦地区は、見どころ満載!居留地時代の遺構や洋風建築など歴史の重みを感じさせる街並みです。

≪東山手≫
オランダ坂・・・雨が良く似合う長崎の代表的な観光地。

東山手十二番館・・・国指定重要文化財。オランダ坂に似合う洋館。

≪大浦≫
旧長崎英国領事館・・・国指定重要文化財。レンガ造りの洋館。

孔子廟・・・珍しい中国の故宮博物館の所蔵品の展示など。

≪松ヶ枝≫
旧長崎税関下り松派出所・・・国指定重要文化財。明治期の洋館。

旧香港上海銀行長崎支店記念館・・・下田菊太郎氏の設計により建設された明治期の洋館。

≪南山手≫
須加五々道美術館・・・長崎出身の洋画家の美術館。墨絵が美しい。

グラバー園・・・グラバー邸など明治期の洋館が集合。長崎観光のメッカ!

大浦天主堂・・・(国宝)幕末に建てられた日本最古の木造の教会。

≪戸町≫
魚見岳台場跡・・・国指定重要文化財。長崎港口の砲台跡。

小菅修船場跡・・・グラバーが建設した最古の煉瓦造り建築とソロバンドック。

女神大橋・・・長崎港の港口に架かる斜張橋で、2005年12月開通。

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浦上地区

浦上地区の観光施設はほとんどが原爆関連の施設ですが、世界最後の被爆地長崎の持つ時代背景と平和の尊さを考える機会になると思います。

bakusinti1-1.jpg 原爆落下中心地
原子爆弾はこの地上500m上空で炸裂、現在は爆心地公園となっています。春には桜の名所になっています。

heiwakinenzou1-2.jpg 平和公園
世界恒久平和のシンボルとして昭和30年(1955年)8月の原爆10周年記念日に建立されたものです。平和の泉もこの公園にあります。

nyokodou1-1.jpg 如己堂
自らも原爆の被害にあいながら、原爆症の研究に没頭した永井隆博士は「己の如く人を愛せよ」というキリストの「みことば」を常に口にし、実行する人でした。

urakamitensyudou1-2.JPG 浦上天主堂
爆心地より北東へ約500メートルの小高い丘の上に建つ赤レンガ造りの浦上天主堂。原爆の遺構が教会の内外に展示されています。

genbakusiryoukan1-1.jpg 原爆資料館
被爆の惨状をはじめ、原爆が投下されるに至った経過、および核兵器開発の歴史、平和希求などストーリー性のある展示を行っています。

kataasitorii1-3.jpg 片足鳥居
1945年(昭和20年)8月9日の原子爆弾の炸裂により、一方の柱をもぎ取られ、かろうじて片足だけで立っています。

gaizinboti1-1.jpg 坂本国際墓地
長崎で亡くなった外国人の墓地。
トーマス・グラバーや、永井隆夫妻の墓もこの場所にある。

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長崎駅周辺

長崎駅前には観光施設は無く、対面する山手に広がっている。

日本26聖人殉教地・・・キリシ夕ン禁令下で処刑された殉教の地。

福済寺・・・長崎四福寺の一つ。亀の形をした霊廟に乗った長崎観音が有名。

聖福寺・・・長崎四福寺の一つ。映画『解夏(げげ)』の舞台にもなった

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浜の町周辺

浜の町周辺は元が浜だったところから付いた名前ですが、今はその面影はなく、長崎一の繁華街になっています。中島川周辺や丸山などは昔の面影を残した町並みが残っています。

土佐商会跡・・・土佐藩の長崎出張所の跡。藩営の貿易商社。

眼鏡橋・・・黙子如定が架橋した我が国最初のアーチ型石橋。

崇福寺・・・国宝2件、国指定重要文化財5件、計21件の文化財がある禅寺。

丸山・・・江戸の吉原、京都の島原と並んだ三大遊郭の一つ。

梅園身代り天満宮・・・映画「長崎ぶらぶら節」の舞台にもなった。

高島秋帆旧宅・・・わが国砲術の祖、高島秋帆の旧宅。

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伊良林・風頭周辺

伊良林・風頭地区は、幕末の風雲児「坂本竜馬」の息遣いを感じる町並み。坂とお寺が多い場所で徒歩での散策になりますが、のんびりと当時の状況を思い浮かべながらの観光を満喫出来ます。

亀山社中跡・・・日本初の貿易商社。海援隊発祥の地。

坂本竜馬像・・・幕末の風雲児坂本竜馬の銅像。

竜馬ぶーつ像・・・日本で最初にブーツを履いた竜馬のモニュメント。

興福寺・・・黄檗宗の開祖隠元禅師ゆかりの寺院。

シーボルト記念館・・・出島オランダ商館医として来日したシーボルトの遺品ほか。

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新地・中華街周辺

新地周辺には、長崎と関わりの深い中国文化を感じる事が出来ます。旧唐人屋敷跡などは、あまり観光マップなどには詳しく書かれていないのでのんびり回ると意外な発見があります。

新地中華街・・・華僑の人達が開いた中華街。ちゃんぽん、皿うどんはここで食べるのがGood!

湊公園・・・中華街に隣接した公園。ランタンフェスティバルの会場で有名。 

旧唐人屋敷跡・・・中国人居留地の跡、当時の遺構が残っている。

出島阿蘭陀商館跡・・・鎖国時代に唯一開かれた貿易の窓口(出島考古学)オススメ!

出島ワーフ・・・長崎港の海岸に並んだ飲食店街、夕方の散歩はオススメ!

長崎水辺の森公園・・・出島ワーフに隣接した海の見える公園。女神大橋や稲佐山も間近に見られます。

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梅園身代り天満宮

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丸山の長崎検番の脇の小道を登り上がった所に白塗りの鳥居が見えてくる、そこをくぐって少し行くともう一つ同じような白塗りの鳥居。
ここが、丸山町の氏神様の梅園身代り天満宮(長崎市指定史跡)です。
元禄13年(1700)丸山町乙名安田治右衛門によって創建されました。

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天満宮とは、その名の通り学問の神様、菅原道真公を祭っているのですが、この天満宮には、不思議な言い伝えがあって、元禄6年(1693)安田治右衛門が、二重門(現丸山交番附近)で、梅野五郎左衛門に襲われ左脇腹を槍で刺されたが、不思議なことにどこにも傷が無く、身代わりに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代わり天神と呼ぶようになったそうです。

また、第二次大戦中、丸山町から出征した若者は必ず参拝していったそうですが、すべて無事に帰還したそうです。
丸山の遊女も、身代を「みだい」と読み、自分に苦労が無いことを願って参拝していたといわれます。

この、「梅園身代り天満宮」は、敷地自体は狭いのですが、祀られているものにユニークな物がありますので紹介します。

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この狛犬は、「歯痛狛犬(しつうこまいぬ)」と言って、昔から願をかけると必ず叶えて貰えると評判の狛犬で、特に歯痛には抜群の効果があったようで、この狛犬の口の中に水あめを含ませて願掛けするとたちまち痛みが無くなったそうです。江戸時代の事ですが全国的に有名になって各地から参拝者が訪れたそうです。

usi.JPG ボケ封じの牛

この牛の石像は、天満宮には必ずある石像ですが、ボケ封じに効果があるそうです。牛の頭と自分の頭を交互に擦ると良いそうです。

tenmangu.JPG 天満宮で文字上手

天満宮と言えば学問の神様、この石碑の「天満宮」の文字を指でなぞると字が上達すると書いてあります。

場所的にはあまり観光には向いていない所ですが、なかにし礼の映画「長崎ぶらぶら節」で有名になった「中の茶屋」もすぐ隣にあり、最近は参拝者も増えているようです。丸山辺りで宿泊される場合は是非訪れて見てください。

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マリア園

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「マリア園」は、明治31年(1898)にフランス人でマリア会修道士センネツの設計により建築された煉瓦造3階建のロマネスク風小聖堂を持つ、北フランス様式建築物です。

昭和25年に同修道会本部が兵庫県に移転してからは女子修道院となり、幼稚園と養護施設(正式名称は、イエズス修道会清心修道院)が併設されて修道女による運営が行われている。

mariaen2.JPG マリア園

南山手のグラバー園より少し南に位置するこの建物は観光施設ではなく、一般には非公開となっているが、南山手の外国人居留地に立てられたレンガ造りの洋風建築というこのロケーションに見事に調和した建物で、ここを訪れる人は多い。

mariaen4.JPG マリア園正面

この「マリア園」は、築100年以上経過している事と、一般住宅として使用しているため、痛みが激しく、危険なため移転や解体などの問題も出ている。

しかし、文化財保護法による伝統的建造物に指定され、市の条令により歴史的建築物として保護されると同時に改築などの規制も加えられている。長崎市が買い上げて観光施設としてオープンするには膨大な改修費が伴うため財政上困難な状況だという。

明治期の建物が次第に姿を消してゆく状況にあって、観光を看板にしているのだから、文化庁などに働きかけて貴重な財産を守って欲しいと思います。(・・・長崎市市長殿へ)

 マリア園

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神の島教会

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長崎駅から車で25分、長崎バスでは長崎駅前から神の島行きで約40分の長崎湾口の西岸にある岬の先端近くに建てられている。「神の島教会(神ノ島と表記する場合もある)

kaminosimakyokai.JPG 神の島教会

明治30年(1897)に建てられた教会で、長崎では大浦天主堂に次いで二番目に古い教会。構造は、煉瓦造で、表面は当初は漆喰塗り、現在は石灰、セメント塗りの純白の建物です。

kaminosimakyokai3.JPG 神の島教会内部

こじんまりとした教会の内部は、低いアーチ型の天井とそれを支える白い柱が、ステンドグラスを通して差し込む陽の光を、鮮やかに映しだして、歴史の重みを感じる重厚な佇まい見せている。

kaminosima2.JPG 岬の聖母像

教会下の岸壁の通称ドンク岩には、「岬の聖母像」が静かに佇ずみ、出入りする船の航行の安全を願っている。

kaminosima3.JPG マリア像

このマリア像は、昭和24年(1949)聖フランシスコザビエル渡来400周年を記念して建てられたが、長年の風雨で痛みが激しく、1984年に再建された。
マリア像の高さ4m60p 製作者ファロニー師

takabokojima.JPG 高鉾島

殉教の島高鉾島(島の海岸では多くの信徒が殉教し、付近の海には西坂の丘の殉教者の遺体とともに投げ込まれた。)

神の島教会
住 所
〒850−0078
長崎市神の島町2−148
рO95−865−1028

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腹切坂

腹切坂とは物騒なタイトルではありますが、実際に長崎にある石碑の銘文です。

腹切坂

国道34号線蛍茶屋の電車の終点より車で15分ほど走った「ペンギン水族館」の入り口付近に古い3基の石碑と案内の石碑が建っている。
この案内の石碑には腹切坂の文字が刻まれている。

腹切坂石碑
これは、昔、熊本の細川家の家臣が、長崎より熊本へ帰郷の際、土地の豪士に剣術の試合を申し込んだ。その結果、武士は敗れ、不覚にも敗れ去った事を無念に思い、「武士の面目相い立ち申さず」と言ってこの坂のあたりで腹を切って果てたそうです。

この事を哀れに思い、村人がこの武士を丁重に葬ったそうです。
その後、ここを腹切坂と呼ぶようになったと云われています。

ここにある3基の石碑は、旧長崎街道(日見宿町)にあったものを、日見バイパス建設工事のため現地点に平成14年3月に移転したもの。

日見峠

長崎街道は、長崎から小倉間を結んだ街道。
日見峠は、江戸時代に街道一急峻な坂道と知られていた峠で、「西の箱根」と呼ばれてた。江戸参府に赴くオランダ使節や幕末の志士の坂本龍馬も・・・往くも還るも、旅人の心に「長崎」を焼き付ける道でした。

長崎市に伝わる、長崎街道の地名を歌い込んだお正月の「はねつき歌」がありますので、ご紹介します。


 まち(長崎)で まんじゅ(饅頭)こうて(買って) 
 日見で 火もろうて
 矢上で 焼いて
 古賀で こんがらかして
 喜々津で 切って
 久山で うちくうた(食べてしまった)

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高島秋帆旧宅(国指定史跡)

takasimasyuhan8.JPG 旧茂木街道
路面電車の終点、正覚寺下電停より右に国道324号線と平行して、旧茂木街道が続いています。この一方通行の旧道を登り、250mmほど行った所に「高島秋帆旧宅」はあります。

takasimasyuhan2.JPG 高島秋帆旧宅
高島秋帆 寛政10年(1798)〜慶応2年(1866)

高島四郎太夫茂敦(秋帆)は町年寄高島家の11代当主で、儒学・書道・絵画・蘭学などを修め、荻野流砲術を父に学び、銃砲や砲弾の鋳型をオランダから輸入し、西洋式砲術を研究しました。
また、「天保上書」を幕府に上申し、砲術の発達や海防等の備えと西洋の軍事技術の導入を説きました。

天保12年には、幕命により武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)での野戦砲・銃隊の射撃と部隊の西洋式訓練を実施するなど功績を挙げましたが、天保13年(1842)に無実の罪で12年間捕らえられました。その後は後進の指導にあたり、江戸で没しました。墓も当地にありますが、寺町の高島家墓地(市指定史跡)にも、秋帆と家族の墓碑が門人によって建てられています。

takasimasyuhan7.JPG 高島秋帆旧宅 石垣
高島家は、大村村(現在の万才町)に本宅がありましたが、天保9年(1838)市中の大火により類焼したので、ここ小島郷の「雨声楼(うせいろう)」と呼ばれる別邸に移り住みました。建物は原爆で大破し解体され、現在は、石垣・土塀・井戸・砲痕石などが残っている。

takasimasyuhan4.bmp 高島秋帆旧宅 石倉
この石倉は、高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったと言われています。
高島秋帆旧宅が国の史跡に指定された、大正11年(1922)に、この石倉はすでに建築されていましたが、いつ建築されたのか正確には特定出来ていない。
現存する長崎市内の倉の中で石造りのものは珍しく、石造り倉庫の貴重な遺構です。

takasimasyuhan6.JPG 高島秋帆旧宅 砲痕石
この砲痕石のある射的場は、もとは上部も側面も石で囲んだ石室状のものであったが、明治33年(1900)ごろ、当時の所有者が、この石材を利用して雪見燈篭を作った。
このとき向う正面の石だけを残したのが、この砲痕石といわれている。

takasimasyuhan11.JPG 石垣
この高島秋帆旧宅がある東小島町は、中心部よりは近いものの道路幅が狭く、一方通行なので車で行くと大変不便です。
路面電車の終点に有料駐車場がありますので、そちらに駐車して徒歩で登ることをお勧めします。

そんな道路事情なので、この地は観光地らしく無く、史跡として貴重な資料が残されています。ただ、保存状態が悪く、国の指定史跡としては荒廃している。早い保護や環境整備が望まれる。

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長崎台場跡 魚見岳台場跡(国指定史跡)

uomidakedaiba.JPG 魚見岳台場跡

鎖国時代に長崎港の警備を厳重にするため承応2年(1653)太田尾、戸町、西泊などに台場を築かせたが、文化5年(1808)新たに女神、神崎などに新台場を構築し、更に同7年(1810)には増台場として神崎、高鉾、長刀岩、魚見岳に台場を築いている。
この魚見岳の台場は対岸の神埼台場と相対して幅500mの港口を押さえる要地で、石火矢22台があった。現在魚見岳台場の遺構は弾丸火薬貯蔵の石蔵や増台場などの石垣が状態良く残っています。

uomidakedaiba1.JPG 魚見岳台場入り口

この魚見岳台場の所在地は、長崎の人でも殆どの人が知らないでしょう。長崎市内中心部より国道499号線を南に車で約10分程度、女神大橋のたもとの南部下水処理場の敷地の先を折れた所に入り口があります。

南部下水処理場のブロック塀と崖の間の狭い通路を行くと、階段が見えてきますので、その階段を登りあがった場所に魚見岳台場跡はあります。(階段はかなり長いのでチョッと大変ですよ!)

uomidakedaiba3.JPG 魚見岳台場より港口

uomidakedaiba2.JPG 魚見岳台場より長崎港

階段を登り上がったら、ご褒美が待っています。
すぐ目の前に海が見えて、左手には高鉾島や港の入り口が、右手には女神大橋越しに長崎港、その奥には長崎の景色が広がっていて、最高のロケーションです。

近くに駐車場が無いので、女神大橋の駐車場に停めて、一旦国道まで降りてくるか、バスを利用した方がいいでしょう。

指定年月日昭和61年1月31日
所在地長崎市戸町4丁目
所有者国ほか

余談ですが、この魚見岳台場跡の土地は、戦後私の知り合いの父が所有していた土地で、女神大橋を開発する時の調査で発見され、国が買い上げたようです。

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旧長崎税関下り松派出所

bekkou1.JPG 旧長崎税関下り松派出所

この旧長崎税関下り松派出所庁舎は、明治31年(1898)に建設され、その後長崎市歴史民俗資料館分館として利用され、親しまれてきました。

建物の外観的な特徴としては、正面を海に向けて建つ煉瓦造平屋建で、正面両端に三角破風(ペディメント)を見せた端正な意匠となっています。

小規模ですが、平面構成上も良くまとまった建物で、附属の便所、敷地を囲む煉瓦塀等、全体として明治時代における税関施設の状況を今に伝えています。
資料的価値が高いだけでなく海岸通りの景観形成にも重要な役割を担っているといえます。
平成2年3月に国の重要文化財に指定されましたが、老朽化が著しかったため、平成10年(1998)より平成13年(2001)にかけ、半解体修理を行いました。

bekkou4.JPG べっ甲資料館 (ペーロン)

平成14年4月に『長崎市べっ甲工芸館』として開館しました。

bekkou3.JPG べっ甲細工道具

館内には、べっ甲工芸品の完成品や、歴史、製造に使用した道具などを展示している。

べっ甲とはタイマイの甲羅を利用した加工工芸品のことです。
タイマイは熱帯産のウミガメの一種で、体長1mに及ぶ大きなものもいます。タイマイの甲羅は糸のこなどで型打ち・型切りされ、削られていき、そのパネルを張り合わせることで加工していきます。張り合わせは高い技術を必要とします、万力や金板を使って熱を加えて行う加工なのですが、この張り合わせや精緻な彫刻に特徴がある技術を『べっ甲細工』と呼びます。

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旧長崎英国領事館(国指定重要文化財)

eikoku.jpg 旧長崎英国領事館
長崎に初めて英国領事館が開かれたのは、安政6年(1859)5月。初代英国領事は、ホッジスン氏であった。

marumado.JPG 旧長崎英国領事館 丸窓

英国領事館の最初の所在地は、大浦妙行寺と言う寺院だったが、その後は転々と移り、明治41年(1908)に、現在の場所に、在上海英国政府建築課ウィリアム・コーワンの設計によって建設され、昭和17年頃まで使用された。
ここでは、オーストリアとオランダの代理領事も兼ねて、外交事務を行っていた。

uraguti.JPG 旧長崎英国領事館 裏口

敷地内には,煉瓦造2階建で1階を事務室、2階を領事住宅とした本館と平屋建の附属屋、煉瓦造と木造を左右に繋いだ2階建の職員住宅などがあり、敷地は煉瓦塀や石塀で囲まれている。

旧長崎英国領事館の建物は、平成5年から「長崎市野口彌太郎記念美術館」として使用されるようになった。 きっかけは、野口彌太郎の作品(油彩・水彩・パステルなど300点以上)が長崎市に寄贈されたからです。

この旧英国領事館の建物は、私たちが小さい頃は児童科学館と言う名称でした。中には動物の標本や剥製、何かの実験の機械や色々な模型などがいっぱいあって楽しい雰囲気の場所でした。

旧長崎英国領事館(国指定重要文化財)・建造物
指定年月日平成2年3月19日
所在地長崎市大浦町1番37号
所有者長崎市

開館時間:午前9:00〜午後5:00
休館日:毎週月曜日・12月29日〜1月3日
入館料:一般 100円 小・中学生 50円

※旧英国領事館は、2007年3月31日をもって閉館します。
 建物の傷みが激しいため、長期の解体修復工事に入ります。

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東山手十二番館(国指定重要文化財)

12bankan.JPG 東山手十二番館

オランダ坂を登り上がった所にあるこの東山手十二番館は、1868年(明治元)に建設されたもので、ロシア領事館として使用されていた。当時の領事館で現存する最古の建物であり、その後はアメリカの領事館やアメリカ宣教師の住宅に使用された。

幅の広い廊下やゆったりとしたベランダなどに、領事館時代の面影を見ることができる。現在は活水学院のラッセル記念館として、私学歴史資料館となっている。

入館無料
時間 9〜17時
休み 月曜(祝日の場合は開館)
住所 長崎県長崎市東山手町3-7

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中国文化と建築物

kousibyou1-1.jpg 孔子廟
孔子を祀った場所。72賢人の石像や想像上の生き物などの石像が所狭しと展示されています。ここは朱色と白の世界。


soufukuji1-3.jpg 崇福寺
国宝の大雄宝殿、第一峰門がある長崎華僑の菩提寺。


meganebasi1-1.jpg 眼鏡橋
わが国最古の石造りアーチ橋。水に映った姿が眼鏡の形になることからこの名前が付いた。


fukusaizi1-1.jpg 福済寺
世界恒久平和を願った長崎観音と、世界で3番目の長さを誇る「フーコーの振り子」がある寺院。


koufukuzi1-1.jpg 興福寺
南京寺とも呼ばれ元和6年(1620) 南京出身の人々が建立した寺。
静寂な佇まいがなんともいえない。


syofukuzi1-1.jpg 聖福寺
長崎出身の歌手・さだまさし氏の原作で、長崎を舞台に描いた小説『解夏(げげ)』の撮影に使われたお寺としても有名。


kannondou1-1.jpg 旧唐人屋敷
唐人屋敷は、密貿易を取り締まる目的と貿易の統制を徹底させる目的で中国人を隔離した地域


tyukagai1-1.jpg 新地中華街
華僑の人たちが興した中華料理店が並ぶ町。本場のちゃんぽん、皿うどんはこの場所で食べるのGoo!


rantan2-5.jpg  ランタンフェスティバル
長崎在住の華僑の人々が、中国の旧正月(春節)を祝うための行事として始めたもの。冬を彩る一大風物詩。

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旧本田家住宅(国指定重要文化財)

hondake1.JPG 旧本田家(国指定重要文化財)
長崎の中心部より車で30分程東に位置し、高速道路の長崎多良見インターより降りてすぐの所に旧本田家住宅は、あります。

旧大村藩領古賀村に遺存する、県下でも最古の農家住宅の一つで、推定建築年代は17世紀から18世紀中頃とされています。
本屋根はかや葺きでも下屋は瓦葺きが普通ですが、ここは下屋もかや葺きの錣葺です。

honnda.jpg 旧本田家 居間
間取りは三間取り(居間が3室)。土間の流しは、はしりとともいうが、しゃがんだ姿勢で作業をしたのが特徴。

hondake2.JPG 道路
この旧本田家住宅に通じる道路の道幅がかなり狭く、対向車が来ると離合出来ませんので、自家用車で行く場合は注意して下さい。

場所は、長崎より諫早方向へ向かって、国道34号線の長崎県営バス藤棚バス停より手押し信号機を右に入って、200m程の所の中野公民館前の小橋を渡り、狭い道路を500m程入った所。(かなり入り組んだ場所にあります)
高速道路の場合、長崎多良見インターで降り、出口の信号を左折、最初の信号から左折(後は同じ)

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孔子廟

kousibyou.jpg 孔子廟
孔子廟は、1893年清国政府と在日華僑が協力して作った孔子の霊を祭る建物です。

gakumon.JPG 黌門(がくもん)
中国の総本山並に伝統美あふれた孔子廟を作る事を目標に、1983年には、中国歴代博物館を新設し、1990年に北京故宮博物院提供の「宮廷文物展」、中国国家博物館提供「中国古代文物展」の展示をおこない、1年おきに展示を入れ替えながらの常設展示をしています。

幾度かの改修新築で本格派の中国式孔子廟として現在に至っています。

72kenzin.JPG 72賢人石像
廟内には、龍の彫刻が施された大理石の階段や、孔子の弟子の72賢人の石像が立ち並ぶ広場は壮観。建物に塗られた朱色と、大理石の白と、青く澄み渡った空のコントラストの中で、だんだん中国いるような錯覚に陥ってきます。

孔子BC.551〜BC,479
中国、春秋時代の学者・思想家・儒学の祖です。
仁・義・礼・智・信の五常を教えました。

東洋道徳の規範となった『論語』は、孔子の言葉を弟子が集めたものです。
釈迦・ソクラテス・キリストと並び、世界四聖(しせい)の一人。


場  所 長崎市大浦町5-45
電  話 0958-27-8222
営業時間 8時30分〜17時
定休日 なし
駐車場 20台
交  通 大浦天守堂下電停より徒歩3分

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福済寺

nagsakikannon.JPG 福済寺 長崎観音
正式名称は「万国霊廟長崎観音」です。1979年に建立された、高さ18m(地上から34m)、重さ35t。台座は亀の形をした霊廟で、内部には地球の自転を示す「フーコーの振り子」(長さ25.1mで日本最大)が取り付けられています。

福済寺は、崇福寺、興福寺、聖福寺と共に「長崎四福寺」といわれる黄檗宗の唐寺で、山号は分紫山。

寛永5年(1628)福建省出身の僧・覚悔が長崎に渡来し、岩原郷(現在の筑後町)に海上守護神である天后聖母(媽祖)を祀ったのが起源とされていて、キリシタン教徒でないことを証明するために在住する唐人達が地方別に建立した寺院のひとつ。戦前は、福済寺の建物で、大雄宝殿、青連台、回廊などは、国宝に指定されていたが、原爆によって全壊全焼した。

mon.JPG 文殊般若の門
筑後町通りを登りあがると、文殊般若の門が見えてきます。
門の上にあるのは鎮魂の鐘で、時を告げる鐘ではなくて、原爆犠牲者の鎮魂のために毎日鳴らされます。この時刻にここに行くと7人まで鐘を突くことが出来そうです。

住所 長崎県長崎市筑後町2-56 TEL 095-823-2663
JR長崎駅→徒歩10分 駐車場 あり
拝観料200円 時間 8〜16時 休み 無休

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須加五々道(すかごごどう)美術館

「須加五々道(すかごごどう)美術館」は、グラバー園の上り口、四海楼前を通り過ぎ100mほど行った所にあります。この伝統的建造物は、明治半ばに建てられた洋風住宅です。長崎市南山手町3−17(旧地番:南山手乙9番地)

須加五々道美術館

須加五々道は、1913年(大正2年)長崎市旭町に生まれ、2003年(平成13年)イタリア・ミラノ芸術家協会正会員に認定された芸術家で、その作品は、水墨画の技術を基調に西洋美術の遠近法を融合させた独特の画風で、「新日本画」と呼ばれています。

須加五々道「農婦」
この作品「農婦」は、1999年(平成11年) 世界40ヶ国のアーチスト出品展においてフランセーズ大賞を受賞。

須加五々道「リアリティ・ラフ」裸婦
「リアリティ・ラフ」は、繊細な墨線で描かれた彼の墨絵は究極の美を感じます。

建物は、下り松41番地で艦船の薪水供給や港湾労務者の斡旋などを営んでいた、G・ナパルコフ氏(ロシア人)により建造されました。明治から続くこの建物もその後改修が行われましたが、平成4年〜5年にかけて半解体修理を行いました。修理に当たっては、旧宅の柱などをそのまま活かして復元されました。

暖炉のある館内
美術館内は淡いグリーンを基調にした色で統一され見る人の気持ちを落ち着かせ、絵もベタベタと数多く展示していないので、ヨーロッパの古い家のリビングにいるような安心感を覚えます。

須加五々道用具類
彼が使用した道具・用具類もさりげなく、質素に展示してある。

宝製鋼株式会社
須加五々道美術館の隣に、大きな赤レンガ造りの建物がある。
設計者は、R.F.ウォーカーで、1902年に竣工された宝製鋼株式会社の工場です。所在地:長崎県長崎市小曽根町1-39。

この建物は100年以上前に建てられた物で、異国情緒に溢れた長崎南山手の町並みに調和した佇まいを醸し出しています。

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湊公園

湊公園湊公園
新地中華街に隣接している「湊公園」はランタンフェスティバルのメインイベント会場になっている場所です。

湊公園正面湊公園正面
通常の公園にはありがちな柵やフェンスも無く、オープンな公園で、公園東側には、中国産の御影石で高さ50センチの石畳舞台と休憩所のあずま屋を設置しています。

湊公園裏門湊公園裏門
あずま屋の裏を山手に向かうと、旧唐人屋敷のある館内町方面に抜けますが、こんな丸い出入り口が設置されています。

この湊公園のもう一つの特色に近代塗装伝来之碑と言う物が設置されている。

近代塗装の碑近代塗装伝来之碑
その碑文には、

 わが国における本格的なペイント塗装は 幕末より明治初年にかけて導入された洋風建築にはじまっているが 長崎出島のオランダ屋敷内では18世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行われていた
 ここにわが国近代塗装伝来を記念して 由緒深い長崎の地にこの碑を建立する
    昭和55年4月
        社団法人 日本塗装工業会
                九州支部連合会
と、書かれている。
我が国へのペンキ(ペイント)による近代塗装が伝来したのは 1854(安政元)年の横浜が最初との通説があるが、長崎・出島のオランダ屋敷では, 18世紀半ばには 既に一部の建物にペイント塗装が行われていたことを示す資料が見つかっているので、出島に近いこの「湊公園」にこの碑を設置したとの事です。

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新地中華街

長崎と中国との交易は1562年(永禄5年)唐船最初の来航から始まりました。
鎖国時代の1702年(元禄15年)出島と同じ位の人工島を荷蔵用地として作り「新地蔵所」と呼びました。幕末に地続きとなり、新地中華街となりました。

中華街の四方にそびえる色鮮やかな中華門は、新地中華街商店街振興組合の人たちが横浜・神戸と並ぶ中華街に発展するよう願いを込めて、本場中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて築造したものです。1985年(昭和60)11/25起工、翌年4/1完成 総工費6千万円。各門は風水に基づいて東西南北に配置されています。

新地 東門東門 東門青龍(青)(春)
北東には、華僑の菩堤寺である崇福寺があり、邪気を封じています。

新地 南門南門 南門朱雀(赤)(夏) 
湊公園へと開かれた南の朱雀門は火を呼び込むとされています。

新地 北門北門 北門玄武(黒)(冬)
銅座川に面する北の玄武門は水を呼び込むとされている。

新地 西門西門 西門白虎(白)(秋)

門をくぐってすぐの場所の足元には、各門を守る四神(古代の五行思想に基づき四方に配される想像上の動物)をモチーフに彫られた石が埋め込まれていますので注意深く見てください。

新地蔵跡新地蔵跡
中華街の真中の交差点には、「新地蔵跡」の碑が建っています。

長崎の冬の風物詩となった、「長崎ランタンフェスティバル(長崎燈會)」は、この新地中華街の春節祭(中国のお正月を祝う行事)から始まりました。

今でこそ長崎市がバックアップしていますので盛大なイベントになっていますが、開幕の初年度は、ランタンの数も少ないので、市民に手作りのランタンを公募して集めていました。

場所:長崎市新地町(長崎バス新地ターミナル裏)
アクセス:長崎駅より タクシーで約4分 路面電車(石橋行き)で約8分 築町下車1分。

長崎新地中華街連合会の公式HPには、新地中華街各店のちゃんぽん・皿うどんの特色と情報を写真付きで載せていますので、参考にしてみて下さい。

shinchi_bnr.gif

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旧香港上海銀行長崎支店記念館

bank.JPG 旧香港上海銀行長崎支店記念館

この威風堂々とした建物は、国指定重要文化財の「旧香港上海銀行長崎支店記念館」です。

香港上海銀行は、開港して間もない幕末の長崎に代理店を置いて活動を始め、明治29年(1896)に長崎支店を開設しました。

bank2.JPG 国指定重要文化財

この建物は、香港上海銀行長崎支店の新社屋として下田菊太郎氏の設計により建設され、明治37年(1904)に竣工しました。以後閉鎖される昭和6年(1931)までの間、外国貿易港長崎の繁栄に大きな役割を果たしました。
その後、梅香崎警察署、大浦警察署、長崎市歴史民俗資料館として利用され、親しまれてきました。

昭和63年(1988)建築後80年以上経過した建物は老朽化が進み、解体が決定しました。平成3年(1991)、市民の間に「旧香港上海銀行を守る会」が発足し、長崎市議会に建物の保存を陳情したり、街頭での署名活動などで多くの市民の賛同を得て、長崎市もその声を受けて建物の調査・保存修理に着手、老巧化した建物を半解体修理すると共に長い年月の中で失われた装飾部などの復元を行いました。

平成7年(1995)、建物は建設当初の姿となってよみがえり、平成8年(1996)10月に「長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館」として開館しました。

bank3.JPG 銀行カウンター
建物の中に入って、最初に目に飛び込んでくるのが銀行当時の1辺の長さ11m、全長22mの大きなカウンター。ミニコンサートなども開いているこのフロアには調度品が何も無い為、異様にカウンターの存在が大きく見えます。

bank11.JPG bank4.JPG 木造の階段


ギシギシと音がする階段を登り、薄暗い通路の左右からわずかに差す光と建物の持つ歴史的な重みが往時を忍ばせて感慨深くなります。

bank9.bmp

最初の部屋へ入ると、この建物には不似合いな人形が丸いヒナ段に多彩な表情で語りかけてきます。この人形は「頓珍漢(とんちんかん)人形」という素焼きの人形です。

bank9.JPG とんちんかん人形

作者の故久保田馨氏が、戦後の爪痕が残る昭和29年に平和への願いを込めて作り始め、かつては長崎のお土産品屋にも売られていて、当時としては異常なほど人気があった商品だったようです。一つ一つ手作りのため、外国からも注文があったそうですが、現在はここでしか見ることはありません。

bank13.JPG あもじょの面

長崎弁で幽霊のことを「あもじょ」と言います。子供の頃には親によく脅されたものです。「早く寝らんば、あもじょが来るぞー!」得体も知らないのにとても怖くてたまりませんでした。

bank7.JPG bank8.JPG 建築用の金具類

再び木造の階段を3階に登ると、右手の部屋では、建物の工法や、修復の様子などを写真やビデオなどで詳細に見ることが出来ます。建築に携わった人にはとても興味のある場所ではないでしょうか?

simoda.JPG 下田菊太郎(1866〜1931)

香港上海銀行長崎支店の設計を任せられたのが明治から昭和初期にかけて建築界の異才として名を馳せた「下田菊太郎」という人物です。 彼は日本人で初めてアメリカ建築家協会の免許を取得。 帰国後はアメリカで学んだ鉄骨・鉄筋コンクリート構造の工法を日本にもたらしました。 菊太郎は当時、洋風建築一辺倒の日本の建築界を批判。 欧米風と和風を組み合わせた独自の日本建築デザインを提唱しますが、主流派からは常に排斥されたといいます。 しかし現在では逆に彼の業績は評価されているそうです。 その彼の作品で日本に唯一残っているのがこの旧香港上海銀行長崎支店記念館なのです。

bank5.JPG 窓からの風景

当時の人達もこの窓越しに長崎港を行き交う船を見ていたのでしょうか?

bank6.JPG

解体の話が持ち上がった時、長崎の繁華街では毎日存続を求める署名活動が行われていました。この歴史のある建物を、松ヶ枝のシンボルを守る為に多くの人たちが一文にもならない活動をして、それに賛同した市民が署名をしたはずなのに、今は忘れ去られてしまっています。もっと広く、多くの人たちに見てもらいたいと願ってやみません。

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出島

出島の図
川原慶賀 『長崎出島之図』
出島は、寛永13年(1636)に江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工の島で、扇型をしていたことから「扇島」と呼ばれていたが、海を埋め立てて築いた島ということから「築島(つきしま)」とも呼ばれていました。当初はポルトガル人を収容する目的でしたが、1637年に島原の乱が起きたのをきっかけに、1639年にポルトガル人追放後は1641年に平戸からオランダ東インド会社の商館を移して1859年まで対オランダ貿易が行われた。当時の面積は約15,000u。
詳しい歴史や背景については長崎市の公式サイトにて→蘇る出島
出島 ミニ模型ミニ出島 模型
シーボルトのお抱え絵師で、長崎出身の川原慶賀が描いた上の絵『長崎出島之図』を参考に1820年(文政3)ごろの出島を15分の1の大きさで再現したものです。

出島オランダ商館跡国指定史跡 出島オランダ商館跡
元は出島オランダ商館跡と呼んでいたが、現在は、ただの「出島」・・・有料です。
一歩中に入ると違う街に来たような雰囲気の町並みが並んでいます。

出島 復元棟
平成18年に完成したばかりの復元棟はまだ檜の匂いが漂う情緒的な街になっています。

出島 料理部屋料理部屋
出島の商館員たちは、昼タ2回力ピタン部屋に集まって、皆で食事をとるのが習慣でした。
ここはそのための調理場で、オランダ人が費用を負担して建てさせた数少ない建物の一つです。オランダ人のほか、東南アジアの人々や日本人の使用人が調理し、肉や野菜などの食材で入手しにくいものは、出島の中で自給していました。

出島 青銅製大砲ブロンズ製12ポンド砲(青銅製大砲)
この青銅製大砲は、昭和29年(1954)浦上河口付近で発見されました。オランダ船の絵姿と、オランダ東インド会社の社章「VOC」および「AMSTERDAM ANNO1640」の文字が刻まれています。

出島 大砲鉄製 大砲
もう一つの大砲。こちらの大砲も浦上川河口付近から昭和39年(1964)に、引き揚げられた鉄製の大砲です。もとはオランダ船に搭載されていたものらしく、何らかの事情により海中に残されました。長崎港と浦上川阿口部ではオランダ船の座礁や船の搭載砲を海中に落とした記録などが残っており、こちらの大砲にもアムステルダムをあらわすAとオランダ東インド会社をあらわす「VOC」のマークが刻まれています。

旧出島神学校旧出島神学校
明治11年(1878)に日本で最初にキリスト教新教神学校として建てられた「出島神学校」ですが、つい最近まで、朝永病院として開業していましたが、現在は資料館と売店になっています。

旧内外クラブ1 旧内外クラブ旧内外クラブ
1903年(明治36年)長崎に在留する外国人と日本人の親交の場としてイギリス人のF・リンガー氏によって建てられた英国式明治洋風建築です。中には当時を偲ばせるビリヤードの台や喫茶スペースなどが設けられています。

出島 古伊万里の輸出品古伊万里の輸出品
我が国の近代化に大きな役割を果たした出島は、明治期(1885〜1889、1897〜19O4)の港湾改良工事により埋め立てられ、本来の扇形をした姿を失ってしまいました。その埋め立てられた遺構から出土した貴重な考古物を旧石倉を「考古館」として開放しています。ここには、当時の皿や使っていた道具、食したであろう動物の骨などが整然と展示されています。出島を観光する上でここは一番の見て欲しい場所です。出島の歴史の証人たちが凝縮された形で語りかけている場所ではないでしょうか。


出島は長崎の人にとっては、普通に街の一部であり、ミニ模型の風景や鉄製の大砲も昔は無料で見られていたので、歴史の中にある土地のイメージは無かったかもしれない。しかし、復元計画が進んで行くうちに隔離された「観光地」になってしまい、逆に長崎の人にとっては、「近くの遠い街」になってしまったかもしれない。

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出島の考古物

出島阿蘭陀商館跡のカピタン部屋発掘調査時に出土したレボルバータイプの銃。
洋式銃と一緒に同地点から21発の弾と摩擦管入りの箱も出土した。

出島カピタン部屋からから出土した拳銃

この銃は、商館長の護身用と思われるが、ピン・ファイア式薬莢で、薬莢をもつ初期のタイプのもの。雷管を強打するピンが外に突き出ているのが特徴で、この突き出たピンがカニの目のようにみえることから、幕末に日本に輸入された当時は「カニ目打ち」と呼ばれていた。

クレー・パイプ

クレー・パイプ(陶器製煙管)

オランダ人が愛好したクレー・パイプは、オランダのハウダ(ゴーダ)地方の白色粘土で作られた物が中心でした。出島を訪れた商館員やオランダ船の乗組員は、自分用のパイプを必要な数だけ準備し、長崎に来ました。消耗品であったために、廃棄された使用済みのたくさんのパイプが出土しています。ヒール(突起部)の部分に押された刻印や精巧な彫刻から作られた会社や製作年代が特定できます。

出島 グラスグラス

阿蘭陀渡りのガラス

出島からは、ヨーロッパ製の様々なガラス製品が出土しています。その多くはワインなどの酒のボトルや窓用の板ガラスなどですが、その中から酒杯やタンブラーの一部も見つかっています。これらのガラス器のほとんどは商館員が出島内で使用したものですが、もちろん日本国内でもヨーロッパ製のガラス器は珍重され、商社の商品ばかりでなく脇荷として販売されました。

動物の骨

出島からは、牛の骨が最も多く出土しています。
オランダ船で運ばれたセブ牛(インド牛)や長崎の近郊の農家から仕入れた和牛、東南アジアから琉球一帯に生息する水牛の骨も見つかっています。

赤絵大皿 金襴手

出島で貿易を行っていたオランダ東インド会社により、出島を通じて海外に輸出された古伊万里の各様式別に発掘品を展示解説しています。

この皿の使い方は?

これはオランダ商館からの注文を受け、輸出向けに特別に作られたものの一つです。
皿の縁にある凹みを、あごの下に受けるようにあてて使用します。
どのような時に使ったのかは不明。

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旧唐人屋敷跡

江戸幕府は、室町時代から九州各地で行われていた中国貿易を寛永12年81635)長崎以外の土地で行うことを禁止した。そのため、九州各地から中国人が長崎に移住、長崎は中国貿易の拠点として大きく発展することになりました。

1670年代の長崎の人口は6万人で、その内の6分の1の約1万人が中国人であったそうです。
あまりの貿易の増加で常高制という貿易の制限をする法律で取締りを強化した為、密貿易が増加した。唐人屋敷は、このような密貿易を取り締まる目的と貿易の統制を徹底させる目的で長崎村十善寺郷(現館内町)に造成されました。造成は、元禄元年(1688)に着工、元禄2年(1689)4月に完成した。これ以降、唐人の市内居住が禁止されました。

この旧唐人屋敷に現存する四堂のうち、土神堂、観音堂、及び天后堂の三堂は唐人屋敷の中に建てられていたものですが、福建会館は唐人屋敷廃止後の明治期に建てられました。
明治4年の日清修好条規の締結後の安政の開国によって唐人屋敷は撤廃され、中国人の大半は新地や大浦の外国人居留地に居住するようになりました。

hirobaba1.JPG旧唐人屋敷入り口

新地の中華街と湊公園の前の道路を山手に向かうと、広馬場商店街の看板がある赤い門が見えてきます。ここが「旧唐人屋敷跡」の入り口にもなっています。

hirobaba2.JPG広馬場商店街

再開発が進む商店街の奥にもう一つ赤い門が見えてきます。

(自家用車の場合、駐車場が無く、道も狭いので、ここの入り口の有料駐車場に車を停めて徒歩で廻ることをお勧めします。)

その門をくぐって、50m程の右手にレンガ塀の古い建物が「土神堂」です。

dosindou.JPG市指定史跡 土神堂

この土神堂は、元禄4年(1691)、唐船の船主らの願いにより建てられました。
天明4年(1784)の大火で焼失し、のち再建され、以後数回にわたり改修されました。
昭和25年(1950)老巧化及び原爆の被害を受けたことから解体され、石殿だけが残っていましたが、昭和52年(1977)に再建されました。

dosindou2.JPG市指定史跡 土神堂

土神堂の左手の道を60m程登った所に「福建会館」の入り口が見えてきます。

fukkennkaikan1.JPG福建会館 正門

福建会館は、明治元年(1868)「八ビン会館」として創建された。その後、明治30年(1897)に建物を全面改修し、「福建会館」と改称した。会館本館が原爆により倒壊したため、現存するのは正門と天后堂などである。

fukkennkaikan2.JPG福建会館

maso.JPG媽祖画像

堂内の中央に、媽祖(天后聖母・天妃)が祀られ、左右に侍婢がかしずき、前に千里(4000キロメートル)先まで見える千里眼と千里先まで耳が聞こえる順風耳が立っています。その横に篆字(てんじ)体で書かれた金色の柱聯がかかっている。

masosama.jpg媽祖像

福建会館裏の番人屋には、唐人屋敷の埋蔵品や復元物、中華民国の初代臨時大統領で、中国革命の父と呼ばれている「孫文」と長崎の関わりなどの資料が展示されていて興味深い。

fukkennkaikan3.JPG資料館

福建会館を出て、坂道を60m程登った所に右に「天后堂」左に「観音堂」が見えてきます。

tengodou.JPG市指定史跡 天后堂

元文元年(1736)南京地方の人々が航海の安全を祈願し、「天后聖母」を祀って建立されました。寛永2年(1790)に修復され、現在の建物は、明治39年(1906)全国の華僑の寄付で建てられました。関帝も祀っているので、別名「関帝堂」とも呼ばれている。ちなみに天后の徳は限りないそうで、お参りすると悟りの岸に登ることが出来るそうです。

天后堂を出て、来た道を通りを隔てた場所に「観音堂」が見えてきます。

kannondou.JPG観音堂

kannondou4.JPG市指定史跡 観音堂

観音堂は、元文2年(1737)に創建された、観世音菩薩と関帝を祀ったお堂です。天明4年(1784)の大火で焼失し、その3年後に再建されました。大正6年(1917)中国商人鄭永超の手で改築されました。入り口のアーチの石門は唐人屋敷当時の物と言われています。

kannondou1.JPG市指定史跡 観音堂

観音堂は市営の「みどりが丘保育所」の敷地の中にあり、お堂の前の広場は、子供たちの運動会やスケッチなどにも使われており、小さい子供さんは古い歴史の中で暮らしています。

midorigaoka.bmpみどりが丘保育所

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